親子の縁は切れない?(俊和)

愛知県名古屋市で、不幸な事態が発生しました。  常套句のように使用される「しつけのつもり」という言葉…。

家庭裁判所において、よく耳にする言葉として、次のような言葉があり、それを思い出しました。

「夫婦の縁は切れても、親子の縁は切れない。夫婦が離婚しても、子どもにとって父親、母親であることに変わりは無いのだから、子どもを親に会わせるべき。」

離婚後、未成年の子は一方の親と生活をともにしますが(こちらを監護親と呼称します)、生活をともにしていない他方の親(こちらを非監護親と呼称します)と会ったり、メールをやり取りしたりということが取りざたされます。これを”面接交渉”問題といいます。

ここで、問題となるのが、本当に、「子どもを同居していない親に会わせるべき」かという点です。

この点、面接交渉において最も重視すべきは、「子の福祉」つまり「どうするのが子どもの幸せのためによいことなのか」ということですが、

・DV等、何らかの問題がある親については、子自身がその親に会うのが苦痛なことが多い。    (やっと離れられたのに、何で会わなあかんの?)   ・子どもは、親の悪い面ほど学習しやすい=まさに負の連鎖   ・監護親の精神的負担。その影響をもろに受ける子の負担

ということを考えると、「問題がある親に関しては、子どもに会わせるべきではない。」と断言できます。

現に、暴力夫(ここでいう暴力とは、身体的なものに限らず、暴言など精神的なものも含みます。)の生育環境を見てみると、その父親が暴力夫であるケースが多いのです(まさに、”この親にして、この子あり”であり、”結婚するときは相手の親を見てから結婚しろ”です)。  その意味では、暴力夫も不幸な星のもとに産まれた被害者なのですが、だからといって、暴力が正当化される訳ではありません。

確かに、子どもを”無菌状態”で育てるのはほとんど不可能ですし、子自身が問題ある親を”反面教師”として育ってくれるかもしれません。

しかし、それは、言ってしまえば、”子どもがきちんと成長するかどうかが分からない、大きな博打”であり、到底許容できるものではありません。

ところが、裁判所も、問題ある親の当該問題性を見抜けない一部の弁護士(よほど、当該弁護士自身の生育環境が良かったのか、あるいは、「問題ある親が現に実在する」ことについての想像力の欠如が原因でしょうか)も、「親だから、子に会って当たり前」をお題目のように唱えて、面接交渉を行う方向へと持って行きます。

それこそ、「あなた方は、本当に、子の福祉を考えてくれていますか?」と問いたいくらいです。

そして、身体の傷よりも、心の傷の方が、分かりにくいうえに、回復が困難だということが、どうして分からないのでしょう。